小川由佳ストーリー
子供の頃
私が生まれたのは、大阪府高槻市です。
家族は、祖父母、父母、私、妹、弟の7人。3人きょうだいの一番上でした。
親は、今でも会うたびに、「子供の頃と今とでは、全然性格が違うね~」と私に言います。
それくらい、今の私と子供の頃の私とはギャップがあるみたいです。
子供の頃の私は、とても引っ込み思案。おとなしくて、いつも母親にくっついているような子供でした。生真面目で、完璧主義でもありました。
おそらく、私が初孫で、ある意味、過保護に育てられたこと。
祖父母がけっこう厳しかったこと。
そんなところが影響していたと思っています。
そんな私が大きく変わったのが、大学に入学してから。
大阪外大を目指していたところが、共通一次に失敗し、津田塾大学へ。
関西から出るつもりなしだったのが、いきなり東京へ行くことに。
入学したのは英文学科でした。海外が好き、英語が好きという"そのまま"な理由でした。
津田塾大学というのは、女子大なのに華やかさとは無縁。質実剛健といった感じの風情で、面白いところでした。
私を含む生徒の半分は地方出身。その生徒たちが、大学の周辺、小平の地に下宿をしていました。私もご多分に漏れず、大学から徒歩10分ほどの下宿の2階に、3人のルールメイトとともに住むことになりました。
昼間は、授業とサークル活動。
夜は、近所に住む同級生と、お互いの下宿を行き来して、夜な夜な話し込む、議論する。
そんな、高校時代とは全く違う自由な毎日の中で、「自分をさらけ出してもいいんだな。ありのままでいても、誰も何も言わないんだな」と思うようになりました。
これが、私にとっての、最初の転換期。
たぶん、親が「性格、変わったね」と言われる原点。
ただ、性格が変わったというよりは、封印してきた本来の性格が出たっていう方が近いと思っています。
就職活動。そして、物流との出会い
就職活動。
生真面目だった私は、「私は何がしたいんだろう」それを突き止めるため、「仕事」というものについて色々調べました。業界の本、職種の本、本当にいろいろ。
でも、本を読んでも、それが一体どんな仕事なのか、どうもリアルなイメージが湧かない。何が自分に合っているかなんてわからない。
結局、「百聞は一見にしかず」「せっかくいろんな企業と触れられるんだから」と、就職活動中、たくさんの企業さんを訪問させて頂きました。多くのOGの方にもお会いして話を聞かせて頂きました。
そんな中で入社を決めたのは、沖電気工業。
お会いしたOGの方がみなさん素敵な人だったこと、加えて、結婚しても出産しても働き続けていらしたことが魅力だったから。
配属になったのは、海外営業本部業務部海外生産支援グループ。
これが、「物流」という仕事との出会いでした。
当時は、「早く自分の専門といえるものを身に付けたい」って思いが強かったから、とにかく与えられた仕事を一生懸命やる、そんな感じでした。
そうこうしていくうちに、やっている仕事が「物流」から「ロジスティックス」になり、「SCM」に・・・どんどん発展していきました。
業務内容も、需要計画、受注管理、在庫管理、輸出入業務といった通常業務から、配送センターの立ち上げ、ERPシステムの導入等、多岐に渡っていきました。
誰かをサポートする喜びを知る
29歳の頃、ご縁があってSCMソフトウェアの会社にコンサルタントとして入社をしました。
i2テクノロジーズジャパンというアメリカに本社を置く、SCMソフトウェア業界では最大手の企業でした。
ITなんて初めて。やったことないし全然わからない。
でも、これまでのSCM業務の経験を活かしてコンサルタントという仕事をやってみたい。
それが入社した理由でした。
当時、メーカーにおいてSCMの実務をやっていくことに迷いが生じていました。
やれば楽しい。でも、本当に一生この仕事をやっていきたい? 私?
コンサルタントという仕事は、お客様にダイレクトに接して、お客様の相談にのったり、モノというより自分自身を通じてお客様の役に立とうとする仕事。
どういうわけか、抗いがたい魅力を感じたのでした。
i2に入ってわかったこと。
他のコンサルタントは皆、IT(エンジニア)の経験があり、私のような業務畑から来た人間は初めてらしいということ。
本当にITのこと、何も知らなかったので、「サーバーとは?」「UNIXとは?」「C言語とは?」等々、一から勉強させてもらいました。
そんな私の、初めてのコンサルタントとしての仕事。
それは今でもとても心に残っています。
とにかく早く現場に出たくてたまらなかった私は、上司に「アシスタントでも何でもいいので、現場(クライアント先)に行かせてください」と事あるごとにお願いしていました。
(今思えば、自分のスキルを棚に上げて、何度も頼みにくる私は、上司にとって困った部下だったと思います(汗)
そんな私に根負けして上司が入れてくれたプロジェクト。
それは、いわくつきのプロジェクト。
どういうことかというと、
途中までクライアント先でシステム導入を進めていたプロジェクトチームが、突然、クライアントさんから解雇。
代わってアメリカ本社から来たコンサルタントチームが、その仕事を引き継いで、クライアント先でプロジェクトを進行させている。
そんな状況だったのです。
そのアメリカ本社チームに日本人はおらず、それがゆえに、「コミュニケーションがとりづらいので、日本支社からもコンサルタントを入れてほしい」という要望がクライアントさんからあり、私に白羽の矢が立ったということのようでした。
求められていたのが、ITの専門家というよりは、クライアントさんと外国人コンサルタントとのつなぎ役だったから、上司はIT素人に近い私のことをアサインする気になったのでしょう。
同僚からは「初めてのプロジェクトがそんなプロジェクトで可哀そう」と言われましたが、当の私は、初めてプロジェクトに入れるという喜びでルンルン♪していました。
「いわくつきのプロジェクトであろうと何だろうと、かまわない。
せっかくコンサルタントとしてプロジェクトに入れてもらえたのだから、今後も継続してアサインしてもらえるよう、何とかこのプロジェクトでがんばりたい」
そう思って、私が取った作戦は、とにかくクライアントさんの要望を注意深く聴き、それを満たすために、外国人コンサルタントや外国人技術者との橋渡しや調整を一生懸命する・・・というもの。
作戦というほどのものではありませんが・・・(汗)
幸い、これまでメーカーでSCM業務に携わってきて、業務知識や経験だけは沢山あったので、クライアントさんの要望はよく理解することができました。
それを外国人コンサルタントや外国人技術者に伝えて、開発中のソフトウェアの仕様を、よりクライアントさんの要望に合うよう調整していきました。
そういえば、印象深かったこととして、こんなことがありました。
あるとき、プロジェクトルームに行くと、クライアントさんが怒っている。
話を聞いてみると、「開発されたレポートのフォーマットが使いにくい、こんなのじゃ使えない」とのこと。
そこで、「そもそもクライアントさんは、レポートを何に使いたかったのか。また、どういう風に使いたかったのか」を聞いて、その使い方ができないか外国人技術者に相談してみました。
そのうえで、「その使い方自体は難しいですが、こういう使い方であればできるし、それ以外にこういうこともできる」ということを、クライアントにデモして見せました。
それを見た時の、クライアントさんのうれしそうな顔を、今でもよく覚えています。
「なんだ、そういう風に使えたんだ~」
そんなこんなで、私はクライアントさんと一緒に仕事をし、プロジェクト後半期には、完全にそのクライアントさんチームと一体となっていました。
自分自身、クライアントさんと一緒に作り上げていく感覚がたまらなく楽しく嬉しかった。
頼りにしてくれていることも嬉しく、残業や休日出勤など全く気になりませんでした。
今から思えば、コンサルタントのあり方としてよかったかどうかはわかりません。
でも、そのとき、私は、クライアントさんと仲間であり、本当に一体感がありました。
おそらく、当時、クライアントさんもそう思って下さっていたのだと思います。
クライアントさんが会社の保養所で行った、プロジェクトの1泊2日慰労会には、私も内緒で招待して頂きました。
(本当は、社外の人間が保養所に泊まるのは、NGだったらしい。)
また、その後、そのクライアント企業から、優秀な業者(個人)に贈られる賞を頂きました。しょぼいITスキルしかなかった私がです。
振り返ってみても、あの時、あのクライアントさんが評価してくれたのは、決して私のスキルではなく、相手の声を一生懸命聴いて実現しようとした、その姿勢だったのではないかと思います。(というか、当時は、それしかできなかったというのが正確なところですが・・・。)
でも、「こんな私でも、相手に喜んでもらえる!」というのは大きな発見であり、とてつもない喜びであり、コンサルタントとして一歩踏み出す自信になりました。
そして、誰かが何かを達成することを支援するということは、こんなに楽しいものなのだということを知りました。
人はそれぞれ違っていいと思えた出来事
なんとかコンサルタントの仕事に"潜り込んだ"私は、徐々に、この仕事のめり込むようになりました。
自分ががんばった結果、クライアントさんが喜んでくれる、クライアントさんが気づきや学びを得てイキイキする、ということがうれしかったから。
また、会社では、日本人以外に様々な人種・国のスタッフがおり、その人達と仕事をするのも、おもしろかったです。
過去、プロジェクトで一緒に仕事をしたのは、インド人、中国人、台湾人、韓国人、インドネシア人、シンガポール人、アメリカ人、カナダ人、ブラジル人、スウェーデン人、ドイツ人・・・ 本当に、いろいろ!
これだけいろんな国の人と仕事をすると、自分の価値観が絶対でないこと、様々な価値観の中の単なる1つでしかないことに、否が応でも気づかされます。
例えば、食事。
ベジタリアンのインド人とランチをするのに、「ここなら大丈夫だろう」と、とある和食屋さんに行ったときのこと。
味噌汁が出てきたとき、そのインド人に「これは、魚の出汁ではないのか?」と聞かれて、思わず「うっ」と詰まりました。
よく考えたら、カツオだしの「カツオ」は、確かに魚。
全く気づいていなかった・・・(汗)
彼には「気づかなくてごめんなさい」と謝りました。
不思議なもので、もし相手が日本人で、「魚は食べられない」「出汁もだめ」って言われたら、「そんなわがまま言わないでほしいな」って思っただろうと思うのです。
でも、相手がインド人だと、そもそも文化も考え方も違うって思っているから、腹も立たない。逆に、こちらから「カツオだしに気づかなくてごめん」と、抵抗なく素直に謝れる。
不思議といえば不思議です。だって、よくよく考えたら、日本人か外国人かなんて、しょせん自分の心の中での区分けでしかないのだから。
これって、言い換えると、たとえ相手が日本人であっても、もっと寛容になれる心の余地があるということだと思いました。
「あなたは○○。私は□□。なるほど、お互い違うんだね。」
相手に自分のやり方を求めるわけでもなく、自分を相手に合わせるわけでもなく、お互い違うという事実を受け入れる。
こんなラクな考え方が誰に対してもできるといいな。
「人はそれぞれ違う」「違っていて当たり前」「違うからこそ素敵」
今、私が仕事をする上で、大切にしている考え方の1つですが、上記のような経験も影響しているのかなと思っています。
試練1 ~ 部下とのやり取りに悩む
コンサルの仕事って楽しい~、そう思って仕事をして3年ほど経った頃から、プロジェクトマネージャーをするようになりました。
部下をまとめながら、クライアントさんへ納期通りに成果物を収められるよう、プロジェクトをマネジメントする仕事。
この仕事で、私はドツボにはまります。部下との関係作りで悩むようになったのです。
中でも一番リアルに覚えているのは、Aさんとのこと。
Aさんは30代前半の男性。
とてもまじめで頭脳優秀。分析が得意で、クライアントさんから頂いた膨大なデータについても、軽々と分析をこなす人でした。
一方で、コミュニケーション下手。
分析結果の正確さにはこだわるものの、クライアントさんへの説明の仕方や資料の見せ方など、「伝えること」にはあまり頓着しない。
そのコミュニケーション不足が、ときどき相手に誤解を生じさせたりすることもありました。
更に、彼には、納得しないと、例えお客さん相手でも、てこでも動かないような頑固さがありました。
このAさんとのやり取りには本当に困りました。
「進捗はどう?」と聞くと、「『どう?』って何がですか?」
「分析、すごくよかったよ」と褒めると、「うーん、よかったって何がですか・・・?」
ことごとく想定外の答えが返ってくるのです。
資料の作成・修正をお願いすると、
「そんなことまでやらなくても、いいんじゃないですか?」
「資料の数字を理解できないお客さんが、悪いと思います」
と、なかなか思う通りに仕事をしてもらえない。
更に、
クライアントさんの説明に、「それは間違っていると思います」と、直球否定。
クライアントさんの反感を買ってしまう。
胃の痛いことばかり・・・。
当時の私にとって、彼は"宇宙人"すぎて、どう対処していいのか、わかりませんでした。
そのうち、彼とやり取りすること、特に、仕事のお願いをすることが、だんだんストレスになってきました。
「また何か言われる」
「反発される」
「どうやって、説得しよう」
「説得できなかったら、私が作業するしかない・・・」
毎日毎日、家に帰ってからも、週末も、ずっとそんなことがぐるぐると頭から離れず、辛くて辛くて、気づけば涙。
思えば、彼の行動・思考パターンと私の行動・思考パターンに大きな隔たりがあったのですね。コミュニケーションスタイルのタイプ分けでいえば、彼はアナライザー、私はコントローラー&サポーター。
私が、彼の発言や行動の背景にある価値観を本当の意味で理解し、彼に合わせたコミュニケーションを取れるようになったのは、ずっと後のことでした。
試練2 ~ 関係部署に相手にしてもらえない
その後、外資系メーカーで、自分の部署(チーム)と部下を持つマネージャーになった私。
当初のワクワク感とは裏腹に、それは、試練の始まりでした。
商品供給プロセスを改革することがミッションだった私は、コンサル時代の経験を基に、理想的なプロセスを導入しようと意気込んでいました。
そこで、理想的なプロセスの青写真を描いて、その青写真を関係各部署に説明し、導入に協力してくれるよう働きかけたのです。
このときの私に、完全に抜け落ちていた視点。それは:
- まず関係各部署や関係者と信頼関係を築くこと。
- 彼らの立場や利害、思いに目を向けること。
- そして、彼らにとって受け取りやすいよう進めていくこと。
そんなこと全く頭になかった私は、関係各部署や関係者と初対面に近い段階から、いきなり大きな青写真を描いて、大演説。
完全に独りよがりでした。
何者かよくわからない、入社したばかりの女性が、勝手に描いた理想像をいきなりもってきて、「こういうプロセスにすべきです」「協力してください」とお願いするわけです。
おそらく相手は、
「いきなり何言ってるの?」
「そんなこと本当にできるの?」
「そもそもあなたは誰?」
「そんな理想を語っている暇があったら、今起こっている商品の欠品をどうにかしてよ」
そんな疑心暗鬼、反発の気持ちだったと思います。
実際、関係する6部署、関係者13名のうち、協力してくれる人はわずかでした。
私は、途方にくれ、その後、もがき続けることになりました。
結局、いろんな試行錯誤を経て新たな商品供給プロセスを導入するまでに、半年を要しました。
このときの経験で、私が学んだことは、体感度No.1でいうと、
人って、結局、論理ではなく感情で動くものなんだなあ
ということ。
人間って、いくら頭で「なるほど」と理解しても、心から「やりたい」「やってもいいかな」って思えないと、動かないものなんだな。
これを実感したのでした。
部下が成長するって嬉しい&楽しい
いろいろ痛い目にも遭ったけど、自分のアプローチ次第で、人が大きく変わる喜びを実感したのも、この頃のいい思い出。
当時、私のチームにいたのは、6名。
- 1.長年その部署にいるベテランの女性(40代)
- 2.全く違う部署から異動してきたばかりの男性(50代)
ちなみに、この2人は、私よりもずっと年上。
他には、
- 3.私と同様入社したての男性(30代)
- 4.倉庫業者から派遣されている契約社員の男性(30代)
- 5.派遣社員の女性(20代)
そして
- 6.こののち数か月して、同業他社から転職してきた女性(30代)
本当にいろんなタイプの人達で構成されていました。
今、思い出す彼らとのエピソードを2つ。
1つ目のエピソードは、ベテラン女性とのこと。
当時、36歳だった私に対して、彼女は45歳。
ずっとその職場一筋でやってきた、まさにベテランの女性でした。
そんな彼女のところに、その会社については素人の私が来たものだから、やはりいい気持ちはしなかったと思います。
当初、なんとなくよそよそしくて、遠巻きに接せられている、そんな感じがしました。
そんな彼女との関係を築きたくて、当時やっていたことといえば、主に以下の2つでしょうか。
- 彼女に相談する、積極的に意見を聞く。(実際のところ、彼女は業務をよく知っているし周りに顔も聞きました。そんな彼女を頼りにしました)
- 彼女自身に興味を持つ(彼女のことを知りたくて、よく話しかけたり、たまにランチに誘ったりしました)
ずっとagainstな感じだった彼女が「もしかして変わったのかも」と思ったのは、半年くらい経った後、同じく部下である派遣の女性から、こんな一言を聞いたときでした:
「○○さん(その女性)が、『小川さん、大変そうだから、皆で支えてあげないとね』と言ってましたよ」
それを聞いたときは、涙が出るほど嬉しかったです。
2つ目のエピソードは、派遣社員の女性のこと。
彼女は、何をやるにも自信がなさそうで、口癖は「私なんてダメ」。
すごく自分を過少評価していて引っ込み思案。
でも、素直でまじめで、私には、とても「ダメ」には思えなくて。
まず彼女にできそうな仕事を選んでお願いすることにしました。
やってくれたことに対しては、「よかったこと」「もっとこうした方がよくなると思うこと」を彼女に伝えました。
これを繰り返しました。
そして、少しずつ仕事のハードルを上げていきました。
ちょっと背伸びをすれば、彼女ができるくらいに。
すると、彼女がどんどん変わってきたのです。
本当に、こちらがびっくりするくらい。
頼まれた仕事を自分がこなせている実感が持てたからなのか。
どんどん自信をつけ、それが彼女の表情や態度に反映されて、イキイキしてくるようになったのです。
半年ほどした頃には、彼女の方から、仕事上の提案までしてくれるようになっていました。
「小川さん、こういうことをやってみるといいんじゃないでしょうか?」と。
びっくりするやら、嬉しいやら。
自分が関わったことで、こんなにも人が変わる、生き生きしてくれる、その喜びは何物にも代え難い、素敵な気持ちでした。
そんなこともあり、人材育成の分野にいきたいなあと思うようになったのでした。
試練3 ~ 戦略コンサル会社で鍛え直される
人材育成分野へいきたいという強い想いから転職した私。
転職した先は、企業変革のコンサルティングや人材育成を行う、戦略コンサルティング会社でした。
採用通知をもらったとき、本当にうれしかったのを覚えています。
でも、入社後、次なる試練が待っていました。
試練の源は、トップダウン思考、戦略思考、仮説思考、などと呼ばれる、コンサル思考。
そのコンサル思考というものが、私には足りていなかったのです。
戦略コンサルティング会社。
それは、自分が働いたこともない業界であっても、そこで観察される事実と論理とをつなぎ合わせて、結論を導き出すことが求められる世界。
その結論が、反論しようもないほど精緻で信憑性があることが求められます。
これまで知識と経験で乗り切ってきた私にとって、その世界はまさに「異国」「別世界」でした。
そんなこととはつゆ知らず、入社して1日目、もらった資料を読んでいて分からない箇所があったので、先輩コンサルタントに質問すると、
「小川さんはどう思う?」
「なぜそう思うの?理由は?」
「そのロジックは?」
「それってMECEじゃないよね?」
矢継ぎ早に問われ、たじたじ。
これまで「正解がある(と思い込んでいた)世界」から、「正解のない(=自分で正解を導き出す)世界」に来たことを思い知ったのでした。
前職の外資系メーカーでは、
「小川さんはすごくロジカルな人だね」と言われていました。
それが一転して、戦略コンサルティング会社では、
「ロジックが甘い」
と言われるようになりました。
なんなのだろう、この違い。
私自身は全く同じなのに。
戦略コンサルティング会社に入社したものの、がんばってもがんばっても、なかなか芽の出ない日々。
このとき、辞めないでがんばれたのは、ひとえに、「これを乗り越えて人材育成分野で活躍できるようになりたい。だから、今辞めちゃいけない」という想いがあったから。
あとから、上司に「小川さんの強みは『根性』だね。これだけ苦労して、辞めなかったのは小川さんだけだよ」と言われました。
「根性」か。言われたとき、ちょっと微妙な気持ちがしたけど。
でも、確かにがんばったと思います。
あのときの苦労とがんばりがあったからこそ今がある。
そう思います。
苦しい中でのギフト
なかなか芽が出なくて苦しんでいたときにも、1つ、ギフトがありました。
(ただ、今だから「あれはギフトだ」とわかるわけで、そのときは全然気づいていなかったのですが。)
当時、戦略コンサルとしてはいけてなかったけれど、1つだけ、社内の誰よりも出来ることがありました。
それは、研修など人材育成の場を通じて、人のやる気を引き出したり、成果を出せるように導いたりすること。
当時、会社は、事業を戦略コンサル分野と人材育成分野の両輪で進めていました。戦略コンサル分野では、私は落ちこぼれ。でも、人材育成分野では、社内、クライアント企業様、両者から、かなり評価して頂いていました。そして、講師の中で、受講者満足度No.1の評価を頂くに至ったのでした。
にもかかわらず、戦略コンサル分野で苦労していた当時の私は、この評価を肯定的に受け止められませんでした。逆に「それしかできないなんて」と自分を責めていましたね。
で、「なぜ、私はコンサル思考ができないんだろう」と悩み続けていました。
でも、今振り返ってみると、
「人材育成分野で人の可能性を引き出す仕事をしたい」と思っていた私にとって、
その事実は、私の生きるべき道を指し示してくれていたのかなと。
そう思えるようになりました。
結局、戦略コンサルティング会社在籍中は、計19企業のリーダー241名に対して、コーチング&コンサルティングを担当。
そして、計35企業のリーダー624名に対して、ビジネススキルや課題解決手法などの研修を担当しました。
入社してから前半は、確かに苦しかったけど、当時、占い師に言われた「苦しい時期だけど、運気は上がっているから」という言葉は、本当だったと思います。
苦しさのあまり辞めなくてよかった。
そのときの経験が、今、まるごと活きています。
独立への道
2010年に入って、妊娠しました。
このとき、私は東京在住、夫は京都在住。
お互いの仕事の都合で、単身婚生活を続けて13年目のことでした。
東京から京都に移住するかどうするか、迷いました。
だって、東京に暮らして23年。東京が好きだったし、人脈もできていたから。
それに!
夫と13年も単身婚。お互い1人暮らし。
今から一緒に住み始めてうまくいくのか。
だいたい、夫だけでなく子供とで計3人、プラス、猫2匹。
一挙に同居する家族が増える。
私、大丈夫か?
でも、結局は、京都に移住することにしました。
子供ができてなお、バラバラに住むというのも、なんか違うかなと思ったから。
東京から京都に来たのが、2010年6月。
そして、出産したのが、2010年10月。
仕事を再開したのが、2011年9月。FAITH(フェイス)という屋号で独立しました。
そして、今
今、研修、コーチング、コンサルティング。
形は違えど、私が行っていることは、ただ1つ。
それは、
「その人本来の魅力 ~能力や想い~ を目覚めさせ、最高に輝かせること」
クライアントさんが、
自分に備わっている力に気づくこと。
気づくことで、その力や自信を目覚めさせること。
目覚めさせた力で、ちょっとずつハードルを乗り越えていくこと。
そのたびごとに、自信をつけて輝いていくこと。
そんな過程を一緒に創り出して、サポートしていきたい。
自分に魅力が備わっていると気づいたとき、
本当に本当に、人は変わります。
びっくりするくらい!
自信が生まれ、やる気のスイッチが入り、
どんどん輝きだすのです。
誰にでも、必ずその人らしい魅力がある。
その魅力を活かして、仕事や人生を切り拓くことができる。
それは、数々のセッションや研修をこなしてきて、
実感として感じることです。
魅力に気づいてもらうこと。
そこから自信を引き出すこと。
それによって、魅力を最高に輝かせること。
それが、私のミッションであり、ライフワークです。